おれたちの家の前の電柱に、あの気味が悪い男の顔がべったりと貼り付けられてから、やっと半日が経とうとしていた。田舎道に落としたあんぱんを裸足でしたたかに踏みつけたあとマーマイトを塗りたくってみました、みたいな顔の男は、ビンゴが朝釣りに行こうとした時には無かったらしいが、それから二時間くらいしてゴミを捨てに行ったシュアは家に帰ってくるなりこう言った「ねえ、あのクソ野郎の手配書がおれたちの電柱に貼られてる」

少し前に世間を賑わせたクソ野郎のしでかしたこと。二十歳にやっとなったかなってないかくらいの男の子を浴槽に沈めて上から腐葉土を振りかけ、二ヶ月間しっかり寝かせてあげた。その手口といい、六本木の法律事務所で働く弁護士で、西麻布のタワーマンションの三十六階に家があり、船舶免許を取得する程度には“本格的に”クルージングを趣味にしていたということも含めて、奴にユニークな部分は一欠片だってなかった。ウィキペディアに格納されたサイコキラーたちの実績を人工知能に隅から隅まで浚わせて辻褄が合うように一人の人間に編集しなおしたような、要するにお決まりまみれの男だ。

しかし当時は他人の悲劇よりも、自分の苦しみが優先されるべきだった。おれたちは三人で顔を突き合わせながら、この家の更新費用をどうするか? という差し迫った問題について毎日議論を繰り広げていた。やくざな大家(反社ではない)はこのボロい一軒家を男三人とゴキブリどもに月額十五万プラス管理費三万で押し付け、あと二年住み続けるためには二ヶ月分の家賃を払えと言う。もちろん、おれたちにそんな金はなかった。ビンゴが精神をバチバチにキマらせて仕事を辞めると、おれもシュアもドミノ倒しに社会の第一線から退いた。おれたちはこれからどうすべきなのか、何をする気も起きないなら話すだけ無駄だし、やる気だのモチベーションだのと呼ばれるいつわりの生命力が自然と漲りはじめるまで自分を放っておくのが正解だろうということで、ちょうどNetflix代を一人五百円ずつ計二回集める程度の期間、夜毎にやってくる悪夢に怯え、水の代わりにワインを飲む敬虔な宗徒として生活をしている。床に寝そべって、カタカナのそれっぽい洗礼名を考えたくらいには大真面目に。

そんな生活に差した一筋の光が、あの面の皮が厚い、ペライチのクソ野郎だった。クソ野郎の首にはいくらかの懸賞金がかけられていて、ただ見つけて交番だの警察署だのまで送り届ければ、おれたちは報酬として十分な金額を手に入れられる。現代に甦りしバウンティハンター。やらない手はなかった。

おれは駅前のカフェの窓際の席を占拠して、一生懸命人混みの中に目を凝らす。紙の表面に擦り付けられて間もないクソ野郎の顔を頭の中に思い浮かべる。眉毛は顔の両端に向かって二次関数的に太くなり、まぶたは蜜蜂に刺されでもしたみたいで、イボになりかけの大きいホクロが鼻の横にある。唇は厚い。こんな時でなくちゃ記憶にも留めておきたくないようなクソ野郎のかんばせ。おれは右目の網膜にそれを投影しながら、左目でこちらに歩いてくる人間全員の顔を検見して、その一致度をはかる。手配書に記載された情報の中でおれが唯一手掛かりにできそうなのはそのグロテスクな画的イメージだけだった。文字で書かれるべきもの、(名前、身長、年齢、体型、あとは癖なんか? 右利きですとか) 読もうすればするほど、記憶しようとすればするほど、字列はおのずと真っ二つに裂けてバラバラに踊りはじめる。おれは自分のことを、とくべつ酷い状態だとは思わない。ビンゴもシュアも似たようなものだから。名前、最後に書いたのいつだったっけ? 家を更新するにはサインがいる、この幻覚作用にもそれなりに対処できるようにならないと。原因として思い当たるのはエナジードリンクの大量摂取で活力を前借りしすぎたことだ。おれたちは一体、何ヶ月先の自分を犠牲にして各々の峠を越えたのだろう。未来の自分に乾杯、過去の自分にクソったれ、この能無し。

クソ野郎は人混みの中に現れ続けた。一人目のクソ野郎を見つけた時は、そりゃあ興奮したけど、その向こうのダイソーの前を二人目のクソ野郎が歩いていくのが見えて、おれは自分の間違いに気づいた。クソ野郎どもは地下鉄の入り口に列を成し、それぞれのオフィスへと運ばれていく。腫れぼったいまぶたは、瞳に宿るはずの生気を全て覆い隠す。だがおれは、それがクソ野郎どもが生きていくための数少ない抵抗手段なのだと知っている。

途方に暮れておれたちの家に帰ると、玄関脇に放り出されたクーラーボックスが塩水と生臭いにおいを滴らせていた。ビンゴも帰って来てるんだ。リビングのドアを開けると、そこにはこれまでで最も一致度が高いクソ野郎の顔があった。おれに気がつくと、暫定:クソ野郎は言った「おかえり、夜は魚にしよう」

ああ、ビンゴ。いっそこいつがあのクソ野郎だということにして、おれとシュアは大金を手に入れるべきか? それでビンゴが外に出てこられるまで、おれたちの家を守り続けようか。ひとつもわけがわからなくて、おれはそこら辺にあったアルパカをボトルから直接飲んだ。天頂を指す喉仏から脳みそに向かって、ねまい露が一度二度と降りていくと、いくらか気分がよくなった。「魚、いいじゃん」と伝えると、ビンゴは「だよね」と笑った。ひどい口臭がした。おれはクソ野郎にもっと適した人間を探し出すために、都会の人混みという人混みを歩き回ることにした。

息巻いて玄関から飛び出ると、クソ野郎の顔面が電柱に串刺しにされてそこに突っ立っていた。おれは神に篤く感謝し、勝鬨をあげ、その頭を引きちぎる。大通りの交番まで走る。右手の中でびちびちと躍動する頭部。